氏照の食事を想像する

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以前、北条氏照のことを書きました。氏照が築城した八王子城は自然豊かなところでした。その当時は、山菜などもや豊かで、禽獣などの獣も取れたと思われます。いまでも、鹿やイノシシがいるくらいです。

うっかりしていました。北条氏照をご存じない方もいらっしゃるかもしれませんので、簡単に触れておきます。北条とは、歴史学的には後北条と言われていますが、鎌倉幕府の後半を治めた北条氏と区別するために「ごほうじょう」と言います。以下では、単に北条とします。

北条氏の初代は、言わずと知れた北条早雲、伊勢新九郎、または伊勢盛時になります。いわゆる下克上の先がげで、出身は備前とも言われていますが、詳細はよくわかっていません。私は、斎藤道三と並んで早雲が好きです。

北条早雲から五代に渡った栄えた北条氏は、関東一円を治めることに成功します。そして最後は、豊臣秀吉に滅ぼされ北条氏の治世は終わりを告げます。

早雲から三代目の北条氏康が、ここで述べている氏照の父になります。氏照は、三男ですが、長男が若くして亡くなったため、次男氏政を補佐して北条氏を盛り立てていきます。

氏照は、戦上手でした。武田信玄、上杉謙信の軍とも戦ったことがあります。しかし、この二大戦国武将を破るのは難しかったので、早々とも入れ替わりで同盟を結んだりしています。その交渉役が氏照でした。戦上手の上に交渉上手。大変勇敢な武将であったといわれます。

氏照は、豊臣の北条攻めの際、兄氏政とともに小田原に立てこもります。その最中に自分が築城した八王子城が、前田利家、直江兼続らの武将に攻め落とされます。他の地域では、説得の上開城が行われてきましたが、八王子城だけは徹底的に攻められ、残された武将は討ち死、女子供は滝に身を投げて自害したといわれています。

氏照は、秀吉から兄氏政とともに切腹を命ぜられます。そして詠んだ辞世の句が以前ご紹介した句です。氏照は、切腹の際、自分の臓物を投げつけたといわれています。すごく清らかで、巨大な権力おもねらない、生一本の性格ではなかったかと推量でき、ちょっときわどい逸話なのですが、私は氏照に未了されてしまいました。

さて、氏照紹介になってしまいましたが、戦国時代の食事の話しです。

戦国時代の食事事情は、いろいろなところで触れられているので、みなさんもご存知かもしれません。その当時は、ご飯は玄米だったようです。味噌などでシンプルに味付けした野菜や魚などが食卓にのぼったものと思います。

お酒は、濁り酒か、あるいは澄んだ清酒。よほどの大大名でないと清酒は飲めなかったようです。時には川で取れた魚も食べたでしょう。魚は、自然の岩魚や山女魚など。八王子城のそばには城山川が流れており、南には南浅川、北には北浅川があります。その川は、魚など貴重なタンパク源を提供したと思われます。

それと、獣、禽獣。今でも、元八王子、高尾、裏高尾周辺はイノシシが出ます。熊もいるようです。氏照のころは、さらに多くの獣、禽獣が出没して、飛び回っていたと思われます。そうしたものも捕られたと想像できます。

いまの環境から想像すると、高尾周辺では、お米がたくさん取れたとは想像できません。今でも、高尾周辺は、水田は少ないようです。その為、北条が治める他の土地のお米が消費されたのではないでしょうか。むしろ、雑穀などが取れていたのではと考えます。

そうした八王子の自然から取れるものを中心に、地域独自の武家の食卓を形作っていたのではと想像します。戦さのない静かな時は氏照の好きな笛を吹いてまわりの人に聞かせてることもあったそうです。

その当時はもちろん、食品添加物などはありません。なので、食品と食事自体は素晴らしかったと思いますが、人の平均寿命を下げるのに力かあったのは、病気と戦さであったでしょう。

北条氏照の食事を想像してみました。

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