おふくろの味について

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私の母親は、料理が上手でした。母の父親、つまりわたしの母方の祖父は、小さい頃貧乏で、後に大阪で丁稚奉公をしてお金持ちになって故郷に錦を飾ったという人でした。

その祖父は、食べものの味にうるさく、母たち兄弟姉妹が幼い頃から、米を炊かせたり、料理も作らせていたそうです。

お米などは、炊き損なうと、だめだといって、池の鯉に全部あげてしまっていたそうです。スパルタもスパルタ、いまなら問題になりそうですね。ただ、そのおかげで母が料理上手になるきっかけができたのだと思います。

もちろん外食でも良いものを食べさせてもらっていました。ステーキも食べさせてもらっていたようです。祖父はよく、この味を覚えておきなさい、といっていたそうです。

隣町一番のお金持ちになったその祖父も、心臓発作で若くして亡くなり、一家は貧しくなっていきました。私の母親は、女中奉公に出ることになります。奉公先は、紡績工場。紡績工場の社長さんの面倒をみながら、工員の賄いも作っていたそうです。そのため、母親は何升といった単位のお米を炊くことができました。幼い頃からの経験も役立ったと思います。

母は、料理を大勢の人に振る舞うのが好きでした。思い出すといろいろあるのですが、先日書いた五平餅、やはり東濃地方の名物で朴葉の葉っぱでちらし寿司を包んだ朴葉寿司など挙げたらきりがないほどです。

あまりたくさん作るのでよく手伝わさせられました。私は兄弟姉妹の中で一番手伝っていました。漬物を漬けたり、味噌を作るのも手伝っていました。

そうそう、話しはずれますが、子どもにお手伝いさせるのも大切です。手伝わせる内容は何でもよいと思いますが、家族の一員として、小さいころから少しずつお手伝いをさせることは教育上もよいことは言われています。

さて話し戻ります。母はあまりに上手で量産できるので、市会議員の選挙の炊き出しに駆り出されていました。

おふくろの味の中でも真似ができなかったのは、意外にも唐揚げでした。母は、醤油の中にニンニクを入れた秘伝のタレを作っていました。

実家にいた頃は料理に興味がなかったので、どのように作っていたかは関心もなく、母も随分前に亡くなってしまったので、その作り方も今となっては知る由もありません。母は、このタレをニンニクだまりと呼んでいました。鶏肉を揚げる前にそのタレに浸し揚げるのです。

母が亡くなった喪失感を感じたのは、おふくろの味が欠落してしまったことでした。精神的なこともそうなのですが、家族はおふくろの味で胃袋をつかまれているのだなあ、そう思います。

今では、妻がおふくろの味を確立してくれています。先日取り上げたトマトの味噌汁なども妻が考案しました。子どもの好きなお菓子のきな粉クッキーもそうです。

子どもは、こうした中で育ちますし、何気ないことなのでしょうが、一生記憶されます。こうして新しい家庭の味、おふくろの味を作って行くのだな、これが歴史を満たしていく、下支えして行く我々庶民のあゆみなのだと思います。

昨日書いた子どもの好き嫌いの問題を解決しようとする格闘の中でも生まれてくるのかもしれません。

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